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横浜今昔物語③ 関内・関外の歴史

関内・関外(かんないかんがい)ってお聞きになった事がありますか?関内駅や関内ホールは知ってますよ、なんて声が聞こえてきそうですね。関内の“関”は関門、いわゆる関所の関なのです。ということは、関内は関門の内側?関外は関門の外側・・・? 今回は横浜在住の方も意外と知らない、 関内・関外地区の歴史をご紹介してまいりましょう。(2016年9月発行「Mon横濱」vol.5より)

公開日 2017年10月25日

カテゴリ
街を知る
エリア
関内駅
ライター
Mon横濱
横浜今昔物語③ 関内・関外の歴史
ペリー提督の黒船来航により開国を迫られた際に、幕府により開港場として選ばれた横浜村。1859年の開港の後、そこには多くの外国人が入り込み、外国人居留地としても栄えていきました。いっぽう開港場と東海道を結ぶ為に開かれた横浜道ですが、横浜道の終着点にあたる野毛や吉田町あたりは横浜道から開港場への結節点として交易の中心地となり、たくさんの物や商人、荷を運ぶ労働者で賑わい、宿屋や飲食店などが軒を連ねおおいに栄えました。人の往来が激しくなるとともに、外国人と武士のトラブルなどの危険性も高まっていきました。そのためそれらのトラブルを避けるために関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まり治安を守ったのです。ちょうど現在の関内駅の近く、伊勢佐木町と馬車道の間にあって高速道路を跨いでいる「吉田橋」、そのたもとに関門が設置されました。関門の海側(馬車道側)が【関内】、陸側(伊勢佐木町側)が【関外】と呼ばれたのです。

吉田橋

吉田橋

住所
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-2
最終更新日:2017.10.18
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現在、吉田橋の下には首都高速道路神奈川1号横羽線が通っていますが、この道路はかつては掘割(運河)でした。関門を境に海側の関内と陸側の関外に、掘割でセパレートされていたのですね。今でもJR京浜東北線関内駅の地下には、当時の掘割護岸の石積みが残っているようです。明治4年に関門は廃止されましたが、その名前が現在まで残っているのですね。

吉田橋の下は、首都高速道路神奈川1号横羽線

関内・関外地区の歴史を知るには、吉田新田の歴史についても触れておかなければなりません。現在、神奈川県庁や市役所、そして横浜スタジアムや多くの企業オフィスがある地区【関内】と、伊勢佐木町からお三の宮周辺までの地区【関外】のあたりは、かつては遠浅の入海で、野毛浦(戸部村の集落のひとつ)、太田村、蒔田村、堀之内村、中村などの半農半漁の村落が分布していました (画像①)。

① 吉田新田開墾前図(開発前図)
 吉田興産株式会社所蔵

現在の元町(元村)あたりから横に長く伸びる砂州(横浜の由来)に囲まれたこの入海を江戸の材木商であった吉田勘兵衛が江戸時代の新田開発として干拓し、田や畑を造ったのです (画像②)。

② 吉田新田開墾図(開発図)
 吉田興産株式会社所蔵

大雨により干拓地の堤防が流されたり、甚大な被害を受けながらも、難工事を乗り越え、工事を始めてから十一年の歳月を費やし1667年に新田が完成、「吉田新田」と呼ばれるようになりました。今年で吉田新田完成350周年を迎えました。この吉田新田開発による入海の陸地化があったから、のちの横浜村の開港場建設もスムースに進めることが出来ました。吉田新田の開発がなければ横浜の開港もなかったと言えるでしょう。はじめに入海の最も大きな面積を埋め立てた吉田新田の干拓により、入海の8割ほどが陸地となったのち、横浜新田(現在の中華街あたり)や太田屋新田が開発されて19世紀の半ば頃には現在の【横浜関内・関外地区】全体の陸地化が完成し、併せて治水・灌漑及び運搬交通網として大岡川、中村川や新田内の運河が整備されました。これらの土地が近代横浜の基盤となったのですね(画像 ③)。

③ 蓬莱町外七ヶ町埋立及び根岸堀割図
 吉田興産株式会社所蔵

※紹介されている情報は、記事公開当時の内容となります。
※飲食店情報の平均予算は、食べログの店舗基本情報を引用しています。

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