江東区は森下・常盤・高橋(たかばし。「ば」です)の界隈。一般的には最寄り駅の名前から「森下」エリアとだけ認知される地域ですが、実はこのあたり、江戸以来の歴史風情ゆたかな、かの「深川」のはじまりの場所なのです。
江戸初期に深川の町はまずここを開拓することから始められ、ゆえに地域の鎮守神・深川神明宮もあれば、深川めしの名店だって構えられています。
日本橋人形町、日本橋浜町などと町名により日本橋ブランドの箔が保たれる町々とは対照的に、昭和に入り「深川」の二文字が町名から取り去られて以来、イメージ的には今ひとつ縁遠いものの、実は……という話です。
江戸初期に深川の町はまずここを開拓することから始められ、ゆえに地域の鎮守神・深川神明宮もあれば、深川めしの名店だって構えられています。
日本橋人形町、日本橋浜町などと町名により日本橋ブランドの箔が保たれる町々とは対照的に、昭和に入り「深川」の二文字が町名から取り去られて以来、イメージ的には今ひとつ縁遠いものの、実は……という話です。

駅から南方にある「高橋のらくろ〜ド商店街」も、正式な通りの名前としては「高橋夜店(よみせ)通り」。その名の通り、往時は寄席も盛んに興業されるなど、深川ナイトライフの舞台として夜ごと大いに賑わった過去があります。
明治29年(1896年)創業の大老舗・芳野屋(よしのや)糸店は、いまや商店街一の古株。代々の家業が継がれることなく廃業する事例がご多分にもれずこの通りでも相次ぐ昨今においてなお、店は4代目のお母さん、5代目の息子さんによって続けられています。
明治29年(1896年)創業の大老舗・芳野屋(よしのや)糸店は、いまや商店街一の古株。代々の家業が継がれることなく廃業する事例がご多分にもれずこの通りでも相次ぐ昨今においてなお、店は4代目のお母さん、5代目の息子さんによって続けられています。

息子・克明(かつあき)さん、母・佳子(けいこ)さんの鈴置(すずおき)親子。


ミシン糸、かがり糸、刺しゅう糸。素材や用途もさまざまな糸の数々。相撲部屋も三つほどある地域らしく、木綿糸だけでなく和装に用いる絹糸も200〜300種。すべて足し合わせれば約3,000種もの糸が揃うほか、ボタンなど裁縫関連の素材や道具類も取り扱う店内。
生来の編み物好きというべき母・鈴置佳子さんは、店を営むかたわらで、あんな帽子やこんなバッグと、好奇心がおもむくままに引きも切らず編み続ける日々。ことしも気づけば14点ほどを完成させていて、店頭に並んでいるものも少なくありません。
生来の編み物好きというべき母・鈴置佳子さんは、店を営むかたわらで、あんな帽子やこんなバッグと、好奇心がおもむくままに引きも切らず編み続ける日々。ことしも気づけば14点ほどを完成させていて、店頭に並んでいるものも少なくありません。

佳子さん作の帽子も多数。その多くがお値段3,500円ほど。
達人級に「編み物が上手だった」という父からその手ほどきを受け、のち文化服装学院で学びもして、かたや納品時に役立つからとまだ女性ドライバーの少ない時代に免許も取得し、都内の道路をあちこち駆け回ったり。その手しごとに欠かせないはずの繊細さはもちろん、本人いわく「下町気質」の活発さも併せ持ち、生業をごく自然体で受け入れ日々たのしむ姿が79歳の今なおまぶしい佳子さん。
彼女は店頭で教えるほか、定期で行われる地域のニットカフェイベントの講師としての顔も持ち、上級者のみならず初心者も含めた編み物技術の伝承にも一役買っています。
彼女は店頭で教えるほか、定期で行われる地域のニットカフェイベントの講師としての顔も持ち、上級者のみならず初心者も含めた編み物技術の伝承にも一役買っています。

店舗のすぐ横で路上園芸。日々是たのし。

息子・克明さんで5代にもなる芳野屋糸店。戦時の東京大空襲では真っ先に標的にされ焦土と化した過去もある地域なだけにこれはますます珍しく、初代にまでさかのぼる店の歩みに関わるエピソードも、それぞれがまち全体としても貴重な記憶の一ページであると言っても過言ではなさそう。

今や当のメーカーも所持していない針のサンプルともども、店内には博物級のものが少なくない。
江戸期より今の埼玉県行田の地にいたという、とある士族身分の一族。明治に入り四民平等が敷かれ身分的特権を失ったのを機にはじめたのが、かねてから内職で作っていた足袋の製作ノウハウも活かせる繊維関係の商売。同類であるほか2人と手を組み三人四脚して始めたその紐(ひも)屋が今に至る芳野屋のルーツです。
行田を起点に、彼らは北は宇都宮から南は東京までの広い範囲を行商する暮らしを経て、明治23年(1890年)、東京・深川区(当時)のまさに現地点のあたりにお店が構えられることとなります。
行田を起点に、彼らは北は宇都宮から南は東京までの広い範囲を行商する暮らしを経て、明治23年(1890年)、東京・深川区(当時)のまさに現地点のあたりにお店が構えられることとなります。

時はめぐり戦争の惨禍を経て、幼い佳子さんが疎開先から戻ったのちは、かたやそのおじいさんが卸専門の「芳野屋糸店」を、他方でお父さんが小売を扱う「鈴置商店」と、売り先ごとにお店を分け、肩を並べ営業していたことも。
配達時は荷車で、遠く池袋のさらにその先へと向かうこともよくあり、それがまた大量になると相当な重量だったようで、おかげで佳子さんのお父さん、なんと身長158センチながらTシャツのサイズが終生Lという屈強なからだつきをしたタフガイだったようです。
配達時は荷車で、遠く池袋のさらにその先へと向かうこともよくあり、それがまた大量になると相当な重量だったようで、おかげで佳子さんのお父さん、なんと身長158センチながらTシャツのサイズが終生Lという屈強なからだつきをしたタフガイだったようです。

一部で騒がれる「ニット王子」との呼び声に困惑しつつも(笑)、克明さんも「男編み会(だんあみかい)」を組織したり、裾野を広げ中。
ひととなりの中に、土地の趣を感じとれる。それまた立派なまちの遺産と言えはしないでしょうか。
(文:古谷大典)
(写真:奥陽子)
(文:古谷大典)
(写真:奥陽子)
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