起伏に富んでいて、道の分岐も複雑かつ小道も多いとなれば、方角を見失うまでが早い(笑)。この一帯へと車が入り込むルートもただ一つのみで、辺りにはどことなく猫の気配。山手線の内側でもだいぶ中心に近い場所にありながらこころよい静けさに包まれた不思議なここいらです。

そんなユニークな地元の記憶を見つめ、また未来を見据えてもいる人がひとり。私服で多用するハットの数々がことごとくよくお似合いのまちのとんかつ屋のご主人、鈴木洋一さんです。

ご近所の友人夫妻とともに。通称「モンマルトルの坂」の中腹で
味な店がキラ星のごとく並ぶこの界隈で、他店に負けず劣らず、粋な食通たちを日夜唸らせています。


カツごと煮るのではなく、別途卵とじをこしらえてからカツにかける「かけカツ丼」。お米は鋼釜で炊いた魚沼産コシヒカリ。おしんこも、60年以上使い続けるぬか床ならではの滋味

さらに店の裏手にある通称「奥のほそ道」をゆきゆきてその先、下りきった辺りに小さな池が控えているですが、このいわば町のシンボルから辿れる地域の足跡と華やかなりし過去の記憶について内外にもっと知ってほしい、もっと広めたい(だってそれだけユニークで素晴らしくて誇らしいものだから)、というのが鈴木さんの思いです。


立派なお屋敷はもちろんのこと、池が湧水や滝を伴うとても大きなものであったこと、それに春にはさくら秋にはもみじと季節の木々や植物も配され、茶店や東屋(あずまや)、お社も備わるまさに大名庭園然とした風情に溢れるものであったことが、近年発見された詳細な絵図からも改めて判っています。
とりわけ「策(むち)の池」は、かつて広がっていた自然を最も直接的なかたちで今に残す、生き字引のような存在。
当時の池は水深2〜3 m、また面積にして驚くなかれ現在のおよそ200倍とも見込まれるほどで、それはそれは大きなものなのでした。

亀や鯉に紛れてなぜかスッポンまでもが泳ぐ策の池。むかし料亭の板さんが放したものらしい

絵図に基づき有志で作られたジオラマ模型は芸が細かく、往年の庭園がミニチュアサイズで現代によみがえったかのような精巧さ。段ボールの土台の上に、紙粘土を用いて作ったもの
いま鈴新が店を構える場所も、まさに当時は芸者衆の出勤を取りまとめる事務施設「見番」の立つ現場であり、そのお隣、いまの荒木公園にあたる敷地では舞踊の稽古も行われていたとか。

池から100mほど離れた仲坂の右脇に立つ、かつて料亭が営まれていた家屋。店々は池の水際に沿うようにして立っていた。家屋と下の土地の高低差の分がまるまる池だったということで、その広がりの大きさがよく想像される

仲坂を登る。見上げるその先に防衛省の電波塔

Y字路。S字の坂。がけ沿いに見つかる、今日となっては実用的意味を全くなさない階段。合理性や効率では片付けられない眺めがそこかしこに転がっているまち
しかし90年代も後半に入ると、土地としてのユニークさを引き金に地域を面白がる外部の動きもふと見られ出し、まちの再興を願う鈴木さんほか地域の同志の思いとおのずとシンクロ。純真な地域愛に根ざした取り組みが新たな商店会・車力門会の結成、「通り名イベント」、またより大規模な「四谷大好き祭り」といったイベントごととして実を結ぶまでになります。

古いコンクリ街灯は大正時代のものと思しきもの。撤去しようにも道が狭く段差も細かく重機が入れないため、今も残っている

街灯のコンクリに。廃止された都電の敷石が用いられた、足元の石畳に。趣深い経年変化



木の質感が匂ってきそうな車力門の模型(原寸大)はなんと段ボール製。母校の四谷第四小学校が地域交流センターとして転用されている「四谷ひろば」にて
(文:古谷大典)
(写真:小島沙緒理)